木曽源氏チーム

鎌倉に先んじて平家を駆逐し都入りしたもうひとつの源氏、木曽義仲。
やがては同じ血族に滅ぼされる悲運の武将。
源平合戦絵巻のプロローグにとりわけ短くまぶしく輝いた、
義仲とそのメンバーたちを紹介します。

現在9名
源義仲巴御前中原兼遠樋口兼光今井兼平義高太夫坊覚明山吹

源義仲みなもとのよしなか
源義仲 野性味あふれる旭将軍
享年31(1154〜1184)
清和源氏・義朝の弟義賢の次男
/生母:遊女
通称:木曽冠者 旭将軍/幼名:駒王丸
役職:征夷大将軍

二歳の時に父義賢を義平(頼朝の兄)に討たれ、木曽に逃れて乳母夫の中原兼遠に養育された。以仁王の宣旨に応えて挙兵、北陸地方で平家との合戦を繰り返し、倶利伽羅峠合戦などで大勝ののち、鎌倉の頼朝に先んじて都入りした。しかし田舎育ちゆえの粗暴なふるまいがあだとなって、公卿や法皇らと反目することに。やがて頼朝の派遣した鎌倉軍(義経軍)に追われて都落ち、近江粟津まで逃れるが、泥田にはまったところを矢で射抜かれてあえなく落命。その彗星のような短くも鮮烈な人生は九郎義経と似通うものがある。

巴御前ともえごぜん
巴御前 強く哀しく美しく!無敵の女武者
享年?(?〜?)
中原兼遠の娘

兄:樋口兼光、今井兼平/姉妹:山吹など

別名:鞘絵 伴絵 舳絵
兄らとともに義仲を支えた武勇に長けた女武者。京を落ちる際、女を伴うことを潔しとしない義仲の意に従い、やむをえず戦線離脱した。のち鎌倉御家人和田義盛の妻になって長寿を得たとも、尼になったとも、いろいろ言われる。いずれにせよ男くさい木曽勢をひときわ華麗なものにする彼女は欠かすべからざる物語の華である。

中原兼遠なかはらかねとお
義仲育ての親
享年?(?〜1181)
義仲の乳母夫

子:樋口兼光、今井兼平など/娘:巴、山吹など

法名:円空
父無し子になった二歳の義仲を木曽に匿い育てた信濃国の豪族。息子らを義仲の郎党に、娘らを妻にあてがい、源氏再興計画を着々とすすめた。その不穏な空気を察した平宗盛は兼遠に義仲を差し出すよう命じるが応じず出家。義仲が晴れて挙兵し木曽を発った翌年1181年、その後の義仲らの悲劇を見届けることなく世を去った。

樋口兼光ひぐちかねみつ
数奇な末路の義仲四天王
享年?(?〜1184)
中原兼遠の息子(次男)

通称:次郎

弟今井兼平とともに義仲に付き従った四天王のひとり(あとふたりは根井幸親、楯親忠)。信濃国西筑摩郡樋口谷(または上伊那郡樋口)を領土としたため樋口と名乗る。木曽軍の副将格として活躍し、義仲が西海で平家と合戦中は京都の守護として残留、法皇らの動向に目を光らせた。宇治川合戦の時、彼は新宮行家追討のため河内に向かっており義仲の死に間に合わなかった。彼は鎌倉方である武蔵国児玉党の聟であったため鎌倉軍に投降し、義経も彼の助命を望んだが、法住寺合戦(木曽義仲クーデター)の折に多くの法皇方の者を殺害した罪からはのがれがたく、ほどなく斬首された。執行は渋谷重国。

今井兼平いまいかねひら
友誼に殉じた篤き乳母子
享年34、32?(1151、53〜1184)
中原兼遠の息子(四男)

通称:四郎

兄樋口兼光とともに義仲に付き従った四天王のひとり。信濃国西筑摩郡今井を本拠としたため今井と名乗る。義仲の乳母子として幼少よりともにあり一心同体の間柄だった。都落ちの際、義仲無念の死を見届けるや否や太刀を口に突っ込んでそのまま落馬して自害、というちょっとすごい死にざまを見せてくれた。

義高よしたか
“源氏の共食い”の幼き犠牲者
享年12(1173〜1184)
義仲の嫡子

通称:清水冠者

義仲が頼朝との同士討ちを避けるため赤心の証として鎌倉に差し出した息子。表向きは頼朝の娘大姫の婿という扱いだったが、それはあくまでもかたちだけ。義仲が誅殺されるとすぐさま彼も処刑されてしまった。残された大姫は、これを境にぶんむくれて両親に固く心を閉ざしてしまう。

太夫坊覚明たゆうぼうかくみょう(だいふぼうかくめい)
野生児義仲の参謀役
享年91?(1144?〜1234?)
南都(勧学院)の学僧  義仲の祐筆(文書掛)・参謀

父:海野幸親
初名:海野幸長/別名:最乗坊信救/法名:西仏
興福寺に住する学僧だったが以仁王の乱の際平清盛を侮辱する文を書いたため清盛の怒りを買い、顔面にうるしを塗って変装し(逆に悪目立ちしそう)北国へ避難した。のち木曽義仲のもとに身を寄せ、その博覧強記を買われて祐筆となる。木曽軍上洛に際しては、去就を定かにしない比叡山に働きかけみごと味方につけるなど活躍した。だが木曽軍入京後、その理由は定かでないが義仲のもとを去っていった。その後、法然の門下生となり西仏と号したといわれる。

山吹やまぶき
義仲の妻・彼女もまた悲劇の最期…
享年?(?〜1184)
中原兼遠の娘・巴御前の姉妹

伝承によると義仲の妻であり巴御前の姉妹であったともいわれているが正確な資料は残されていない。義仲に付き従って木曽から上洛するが、宇治川合戦後、形勢不利となった義仲のもとに駆けつけるべく身重(あるいは病)の体でけなげに追いすがるが、その途中、大津の秋岸寺で敵に斬り殺されてしまったという。

葵あおい
もうひとりの「女武者」
享年?(?〜1183)
巴御前のほかにも木曽には女武者が結構いたらしく、この葵もそのひとり。でも倶利伽羅峠の戦いで早々に討死してしまったためか、巴に比べるとずいぶん影が薄い。義仲をめぐって巴や葵らは果たして恋の火花を散らしたのか、また割り切ってさばさばと付き合ってたのか、歴史に残らないそのへんの事情も気になるところ。